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2021.07.22

『YOUTHFUL DAYS』vol.1 加藤弘堅

 

プロの厳しい世界で戦う男たちにも若く夢を抱いた若葉の頃があった。緑の戦士たちのルーツを振り返る。

 

取材・文=上岡真里江

 

「一番じゃなきゃ嫌」、「練習は陰でやっていた」

“負けず嫌い”の性格が、今の加藤弘堅を築き上げてきた。7歳離れた兄と2人兄弟。遊んでくれる兄の友だちを含め、常に大人たちに囲まれていた影響もあるのかもしれない。「なんでも自分でやりたがる」子どもだった。

 

その性格は、サッカーでも大いに発揮された。ボールを蹴り始めたのは幼稚園の年長の頃から。週に1回だったが、通っていた幼稚園で放課後に行われるサッカー教室は、友だちと一緒に遊ぶ手段の一つでもあり、楽しくて仕方がなかった。

 

卒園後、学区の関係で、一緒にサッカーをやっていた仲間の大半とは別の小学校に入学することになったが、「こっちにおいでよ」と誘ってもらい、隣の小学校のサッカークラブに所属することになった。

 

周りの子より身長が高く、足が速かったこともあり、スポーツは何でもできた。学校でもサッカークラブでも常に中心であり、「一番じゃなきゃ嫌」だった。だからこそ、その地位を守るための努力を惜しまなかった。

 

今でも忘れられないエピソードがある。小学校3、4年生の頃に、新しくサッカークラブに入ってきた初心者の子がいた。一言で言えば、「下手くそ」だった。だが、どんどんサッカーにのめり込んで、毎日の習慣としてリフティングをするようになると、「今日は○回やった」「○回できるようにやった」と、たびたび報告してきたという。もちろん、加藤もそれなりの回数ができる自信はあったが、正確に回数を数えたことはなかった。新米少年のクリア回数が100回、200回と増えていくと、たちまち闘争心に火がついた。

 

「絶対に負けたくないと思って、僕も真似をして、毎日リフティングをするようになりました。学校から帰ってきて、まずは遊びに行く前にやって、『今日は○回』と決めて。その回数を日に日に増やしていって、目標回数ができないと、自分ができないことに自分で不貞腐れて(笑)。悔しくて、その日は遊びに行かずにずっとリフティングしていました」

ただ、今にして思えば、この時に習慣づけた毎日のリフティング練習が、「きちんとボールを捉える技術」を自然と身につけていく要因になった。

 

前述のとおり、体が大きかったため、小学生にしてチーム屈指のロングボールが蹴れた。ポテンシャルを伸ばすべく、コーチから「(利き足の)右足を使うな」とテーマを設けられると、負けず嫌い心が燃え上がり、「〇〇(チームメイトの名前)の右足より上手くなってみせる!」と心に決め、ひたすら左足での練習に明け暮れた。

 

“加藤らしい”のは、「その努力を素直に見せることができない」こと。「そういう練習は常に陰でやっていた」という。負けず嫌いの極みともいうべき性格を象徴するような話だ。“陰の努力”の甲斐もあって、所属クラブ史上初の千葉県選抜選手となり、スペイン遠征を経験することもできた。それは今でも自身の中の貴重な財産であり、誇りでもある。

 

 

ウイングスで見つけた生きがい

もう一つ、今の自分の礎となっているものがある。小学校6年の時に加入した東京ヴェルディの公認支部の一つ、ウイングスSS習志野(現 Wings)での経験だ。

 

当時、千葉県選抜選手として注目を集めていた加藤を、千葉県をホームタウンとする柏レイソルとジェフ千葉が一目置かないはずがなかった。「ぜひ、セレクションを受けてほしい」と猛烈な勧誘を受け、自信満々で受験したが、結果はまさかのダブル不合格。失意のどん底だった。

 

そんな中で唯一合格したのがウイングスだった。「恥ずかしい話、その時はヴェルディの育成組織だという認識がなくて……。千葉にあるクラブチームの一つというイメージでした」。当時は渋々の入団だったことを認めているが、ウイングスだったからこその価値は十分にあった。中盤、ボランチで起用してもらったことものその一つだ。

 

小学生時代は主にFWとして活躍していたが、4年生だった1999年、小野伸二(現コンサドーレ札幌)の大ファンだった母親の影響でFIFAワールドユース選手権を観た。大会を観ていくうちにいつの間にか魅了されたのが、遠藤保仁(現ジュビロ磐田)のプレーだ。それは、「いつしか点を取ることより、パサーとして生きがい、面白さを感じるようになっていった」と言うように、自身のプレーにも大きな影響を及ぼした。そんな加藤にとって、ウイングスで憧れの選手と同じポジションができることは大きな喜びだった。

 

 

ウイングスではチームメイトにも恵まれた。

「中学の陸上大会に出ても目立つぐらいの、ずば抜けて足の速い選手がいたんです。その子に向けてポーンと裏に蹴ったら、たいがいチャンスになる。そのおかげで、パスを出していて『楽しい』と本気で感じるようになりました」

 

日本代表の司令塔を模範に、パサーとしてポテンシャルを発揮しつつあった中学3年生に、本部のヴェルディはユース加入のオファーを出している。ところが、加藤には心に決めていたチームがあった。

 

中学1年の時、国立競技場のゴール裏で全国高校サッカー選手権大会の決勝を観戦して以降、「青いユニフォームにずっと憧れを持っていた」という。決勝のカードは、地元千葉県の市立船橋高校と長崎権の国見高校。試合は小川佳純(元アルビレックス新潟)のスーパーミドル弾で市船が優勝し、それ以来「市船でサッカーをやりたい」と夢見ていた。

あれから17年の時が経ち、今こうして再びヴェルディからオファーを受け、緑のユニフォームに袖を通すことになった。その巡り合わせに、改めて深い縁を感じているという。

 

「6年間北九州にお世話になり、一昨年はJ3で優勝、昨季はJ2で5位。やりがいも充実感もありました。でも、改めて自分のサッカーキャリアを考えた時、プロサッカー選手として勝負できる移籍というのは、32歳ぐらいまでだと思っていました。今年で32歳。そのタイミングで、お話をいただけたこと、そしてそのクラブが、支部だったとはいえ、中学時代に一度お世話になったクラブだということに、強い縁を感じています」

 

高校卒業後からプロキャリアを13年積み重ね、GK以外のすべてのポジションで試合に出場した。だからこそ「前線の選手と守備の選手、それぞれの要求は違う」ことを理解し、「相手選手の心理状況を読み、追い込まれている選手を見つけたら迷わず突いていく」という優れた状況判断も身につけることができた。その武器を、新天地でも遺憾なく発揮したいと心から望んでいる。

 

人生を懸けた新たなチャレンジ

加藤には、プロとしての自らの立居振る舞いを通して伝えたいことがあるという。それは両親から人生の教訓として教えられてきたこと、「人間性の大切さ」だ。長くプロの世界で生きていたからこそ、その重要性をより一層感じている。

 

「プロサッカー選手として、技術、身体能力、センスはもちろん大事ですが、それ以上に周りに見られているのが人間性です。いくらサッカーが上手くても、人のことを考えられない、自分勝手、そういう人間性の部分でサッカー界を去っていく選手って多いんです。逆に、実力はそこそこでも、人間性を買われて残っている選手もいる。そういう選手のほうが大事にされている。人間性はサッカーに限らず、どこの世界に行っても通用する大切なものです」

 

自身も素直に親の言うことを聞けない性格だったからこそ、そのことを子どもや若い世代に伝えることがいかに難しいかは十分に理解している。それでも、すべてを経験してきた親の助言を聞き入れ、人間性を磨くことの大切さを表現していく。

 

加藤の持ち味は、チーム内のちょっとした歯車の狂いや相手の心理的な弱点にいち早く気づき、繊細な気遣いで対処していくプレーだ。しかし、自身のプレースタイルについては、「見ている人に、パッと見で評価してもらえるかと言ったら難しいと思う」と冷静だ。だが、黒子に徹しながらも、存在価値は示していく。

 

「僕が出ている試合と、出ていない試合で、『やっぱりいるのといないのとでは違うね』と言ってもらえるような選手になれればなと思います」

 

31歳で移籍した自分を、自ら「チャレンジャー」と呼ぶ。「上手くいかないことのほうが多いと思いますが、挑戦するうえでそれはつきものだと思う。苦しむ覚悟はできています。『大変』という言葉は、『大』きく『変』わると書きます。たくさん苦労してこそ、大きく変われるということ。苦しみを乗り越えて、最終的にみんなで笑えればと思います」

人生を懸けた新たなチャレンジに、持ち前の“負けず嫌い”心がまたメラメラと燃えている。