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2021.08.08

『YOUTHFUL DAYS』vol.9 柴崎貴広

『YOUTHFUL DAYS』vol.9 柴崎貴広

プロの厳しい世界で戦う男たちにも若く夢を抱いた若葉の頃があった。緑の戦士たちのルーツを振り返る。

 

取材・文=上岡真里江

 

今とは真逆の性格だった少年時代

 

決して華やかなサッカーキャリアではない。日本代表に選ばれたこともなければ、正ゴールキーパーとして試合に出続けたシーズンも数えるほどだ。それでも今年でプロ21年目。常に必要とされる存在であり続けている。柴崎貴広はなぜ、厳しいプロの世界でこれほどまでに長く生きてこられたのか。理由は、その人柄に触れれば誰もが納得するに違いない。

試合に出れば、「チームメイトたちの代表として出ている。出られない人に恥ずかしくないプレーを」と、誰よりも強い責任感を持ってピッチに立つ。ベンチやメンバー外の日々が続いても、決して自暴自棄にならず、出場選手たちへの全力サポートを惜しまない。まもなく39歳を迎えるが、若手GKたちと大差ない練習メニューをこなし、ケガによる長期離脱もほとんどない。機を見ては、率先して『ランチGK会』を開催し、GK間の結束を強める(新型コロナウイルスの蔓延以降は中止)。そして、選手のために朝早くから夜遅くまで労力を尽くすチームスタッフへさりげなく差し入れをし、感謝の思いをきちんと形として表現する。こうした、日頃から見せる一挙手一投足には、クラブ、チームへの愛情と仲間へのリスペクトが溢れている。柴崎が周囲を大事にするからこそ、周囲からもまた、大切にされるということだ。

 

だが、意外にも、子どもの頃は真逆の性格だったというから面白い。「たぶん、中学3年生の時」だと記憶している。通知表に書かれる担任の先生からの所見欄に、他の友だちが長所・短所など長めの文章が綴られている中、自分だけは『One for all, All for one(一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために)』のワンワードのみだったという。

 

「当時は英語だったし、意味が分からなかったから、『先生、何言ってるんだろう?』と思っていました。でも、大人になってよくよく考えてみると、確かに俺、人のために何かをするのが好きではなかったなと思って……」。決して、協力しないわけでも、サボって参加しないわけでもなかったが、例えば合唱コンクールのクラス練習などは、「なんで、みんなで歌を歌わなきゃいけないの?」と思いながら、渋々歌うような少年だった。

 

それでも、サッカーにだけは情熱のすべてを注いだ。全国高校野球選手権(甲子園)出場経験のある父親の影響で、小さい頃から野球をして育った。そんな「プロ野球選手」が将来の夢だったはずの貴広少年がサッカーに導かれたのは小学校1年生の終わり頃だった。

1993年のJリーグ開幕に向け、日本全体がサッカー熱を帯びつつあった中、次々とサッカークラブに加入していく友人たちの後を追った。2年生までは特定のポジションを決めず自由にやっていたが、小学校3年生の時に自らの意志でGKを選択。「当時から背が高かったから止められたというのが一番だったと思いますが、ひと通り全ポジションをやったうえで、『フィールドプレーヤーは遊びの時でいいや』と。点を取るよりも、シュートを止めるほうに楽しさを感じましたし、何より『GKでなら試合に出られるかもしれない』と思ったから選んだんだと思います」。以後、本腰を入れてサッカーに専念するようになり、そこから30年近くたった今もなお、ゴールを守ることだけを生業にしている。

 

プロになれた最大のカギは「指導者と環境に恵まれたこと」だと断言する。小学校、中学校、高校と、各カテゴリーで“GK専属”のコーチの指導を受けることができたのだ。現在のように動画サイトなどで簡単に海外サッカーの情報が入る環境ではなかった当時、それはこの上なく大きな価値があった。

 

小学生時代は、同じチームの友だちの父親がコーチをしていたが、その人が元日産サッカー部(横浜F・マリノスの前身)でプレーしていたという巡り合わせ。初めて本格的なGKの動きを教わった。「砂場の上で、ボールに飛びつく練習をして、『ボールって、こうやって止めるんだな』など、基本的なボールの止め方を教わりました」

 

横浜マリノスジュニアユース追浜で過ごした中学生時代には、藤井泰行コーチ(元カマタマーレ讃岐、現オルカ鴨川FC GKコーチ)の指導の下、専門的な動きを含め、基本のすべてを学んだ。そして何より大きかったのが、J1の名門・横浜マリノス(現横浜F・マリノス)の下部組織にいたことだ。当時、トップチームでは「日本サッカーにおけるGK像を変えた」とまで称賛された川口能活さんが正GKとしてブレイクし始めており、そのGKコーチだったブラジル人コーチの練習方法は大いに評価され、アカデミーでも積極的に取り入れられた。

(左から3人目)

 

「能活さんの練習も直接見たりしていましたし、その流れで練習もブラジル色が強かったと思います。ブラジルのGKコーチは練習が厳しくて、フィジカル的な要素がものすごくあるので、めちゃくちゃきつかったです。とにかく反復練習をたくさんやった記憶があります」

 

この時代に、もう一つ大きな決意をしている。「プロになりたい」と本気で目標を定めたことだ。今でもはっきりと憶えている。三ツ沢球技場(現ニッパツ三ツ沢)に横浜マリノスvs柏レイソルの試合を見に行った時のこと。両チームのGKは川口さんと土肥洋一さん(現レノファ山口FCGKコーチ)という豪華な顔ぶれだった。

 

「スタジアムは満員で、その中でGK2人がそれぞれナイスセーブをすると、スタンドがめちゃくちゃ盛り上がっていました。『かっこいいな~。観客を熱く感動させるってすごい。自分もこうなりたい!』って、この試合を見て初めてちゃんと思いました」

 

その後、プロになり、土肥さんとはチームメイトとしてともにプレーすることになった。憧れだった川口さんとは、試合での対戦はなかったものの、試合会場などで会った時には「柴崎くん」と声をかけてもらい、一緒に写真を撮ってもらうなどの交流を持つことができた。「プロになって良かったな~と思えた出来事のひとつ。あの当時の自分に自慢したい(笑)」と回顧する柴崎の表情は、すっかり少年時代に戻っていた。

 

通学、上下関係……部活で学んだもの

 

プロ入りを決意したにもかかわらず、中学卒業後の進路は、マリノスでのユース昇格ではなく、向上高校を選んだ。「当時のユースのコーチに『来ても、来なくても、どっちでもいい』と言われたんです。『どっちでもいいんだったら、じゃあ行かないです』と断りました」

 

なんとも強気に見えるが、一方でしっかりとした未来へのヴィジョンが見えていた。「クラブチームは中学校で経験したので、今度は高体連の“部活”というものを味わいたいなぁとも思いました。高校サッカーへの憧れもありましたし。で、いくつかの高校から声をかけていただいた中で、『絶対にプロにするから』と言ってくれたのが向上高校の小林賢一郎さんでした」。小林さんは、ヴァンフォーレ甲府で現役を引退後、母校でもある向上高校のGKコーチに就任する際、最初に指導する選手として柴崎を選んだ。「絶対にプロにしてくれるんだったら行こうかな」と夢を託すことにした。

 

その練習は、まさに「プロになるための練習」だった。要求はそれまでとは比較にならないほど高く、「高校レベルでパンチングなんてやっていたら、プロでは通用しない」と、常にキャッチングでのセーブを求められた。「質、量とも、日本一の練習をやったという自負はあります」。そう胸を張れるほど、厳しくも充実した日々を送ることができた。

 

練習量もさることながら、“部活”にありがちな必要以上の上下関係の理不尽さもたっぷりと味わった。さらに過酷だったのが通学だ。横浜と同じ神奈川県とはいえ、伊勢原市に学校があったため、電車を3本乗り継いで片道2時間半の長旅。「僕よりも、親が大変だったと思います。朝5時台に家を出る僕のために、毎朝お弁当を作ってくれて、部活を終えて帰るのは23時頃。それに合わせて夜ご飯を作ってくれたり、洗濯をしてくれたりと、そうしたサポートなしでは頑張れませんでした」

そんな環境でも、高校時代は無遅刻無欠席の皆勤賞だった。「遠かった分、乗り継ぎの関係もあるので、乗る電車、時間が完全に決まっていて、『休んじゃえ』とか『一本遅らせよう』とはならなかったですね。それに朝は通勤ラッシュで、毎朝だいたい同じ顔ぶれなんですよ。で、電車が来る前に並んで、まずは座るための戦争があるんです。僕はだいたいそれに敗れて立つんですが、それに慣れると、立って寝られるようになるんですよね(笑)。最後、3本のうち1本、30分間座れる電車があるので、そこで寝たり、テスト勉強をしたりしていました。ある意味、電車で立っているのはトレーニングだと思っていましたし、今思えば、時間を有効利用したかなと思います」。柴崎が醸し出す、Jリーガーにして、どこか庶民的なオーラや視点は、高校時代にそうしたごく一般的な日常生活を体験したからだろう。

 

上下関係にしても、理不尽な嫌がらせを味わってきたことで、「その分、今はもうどんな理不尽なことがあっても耐えられる」と自虐的に笑う。一方で、自分たちが最上級生になると、「同じ思いを下級生には味わわせるのは絶対にやめよう」と、悪しき風習を撤廃。その正義感が何とも柴崎らしい。

 

小林さんの言葉に二言はなく、高校卒業とともに見事に東京ヴェルディ1969の一員としてプロ入りを果たしたが、自らのGK人生を振り返ると、プロになれたのも、プロになって20年以上続けられているのも、すべて「練習量」の賜物だという。「自分は特別身体能力が高いわけでもないし、サッカーセンスがあるわけでもない。だからこそ、“止める”という部分だけは、とにかく量をたくさんこなしてきました」

 

フィード力、足元の技術など、GKに求められる役割は日々多様化していくが、キャリアを長く積めば積むほど、「GKは結局、ゴールを守る仕事が一番大事」だと思える。「相手チームは “ゴール”を奪うためにいろいろな努力をしてくるわけで、その思いが乗ったシュートを止めるというのは、ものすごく気持ちが良いことですし、一つのセーブで局面や流れ、さらにはスタジアムの雰囲気が変わったりもする。それが、ここまでやってきて僕が感じる、GKの一番の醍醐味です」

 

実はGKとして試合に出ていて、ものすごく嫌いな瞬間がある。ゴールされたボールを拾いに行く作業だ。あの屈辱的な思いだけは、どれだけ長くキャリアを積んでも、絶対に慣れることはないし、慣れてはいけない。だからこそ、その回数を減らすべく、今なお技術向上に心を燃やし続けられているのかもしれない。

 

今、プロ21年目のGKを突き動かしているのは、「ヴェルディが好き」という思い一つだ。

 

「プロになって最初に入ったクラブで愛着もあるし、『プロとはこういうものだ』というのを教えてもらった。自分が関わっている間に、良い思いをしたいですし、ヴェルディに関わる人みんなに良い思いをしてほしいと心から思っています。そのために、長くない残りの現役生活、なるべく後悔がないように、できることはなるべく行動したいと思っています」

GKとしてはもちろん、人間・柴崎貴広にしかできない形で『永井ヴェルディ』を包み支えていく。