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2021.08.09

『YOUTHFUL DAYS』vol.10 富澤清太郎

『YOUTHFUL DAYS』vol.10 富澤清太郎

プロの厳しい世界で戦う男たちにも若く夢を抱いた若葉の頃があった。緑の戦士たちのルーツを振り返る。

取材・文=上岡真里江

 

やんちゃ少年とサッカーの出会い

 

富澤清太郎38歳。サッカーもプライベートも、誰に左右されることなく常に“我流”を貫いてきた。「昔がどうだったかより、これからどうなるかのほうに興味がある」という考えから、過去を振り返ることはほとんどない。だが、この機に改めて過去の自分に目を向けたところ、その性質が幼少期からのものであったことを再認識することになった。

 

まさに『破天荒』という表現がぴったりの子どもだった。幼稚園の頃は、『LEGO』ブロックに夢中。小学校に上がると、通信簿の成績は体育と図工だけが飛び抜けて良かった。「楽しいことにはとことん没頭する。気が乗らないものには興味すらわかない」。そんな少年だった。

 

卑怯者が許せないという気質も当時からのものだ。例えば、いじめられている子を見たら、いじめている相手を絶対に許すことができない。「自分で言うのもなんですが、正義感ゆえ、悪になっていることが多々あった。いじめられている子を助けたつもりが、僕が廊下に立たされているんですよ(笑)」

 

チャレンジ精神も今とまるで変わらない。「僕、小学生、中学生、高校生と3回、交通事故に遭ってるんですよ。1回目は、地元・日吉の団地の周りで友だちと自転車レースをしていた時、ちょっと大きな通りに出たら、ちょうど車が来て…『ドンっ』と。その頃から、『これ以上は危険だ』という直感が働くんだよね。だけど、そのボーダーラインを超えるような自転車の操作をしてしまった」

 

頭で分わかっていながらも、“境界線”を超えてみたくなるのだろう。アゴが腫れ、口が開かなくなるほどの大ケガを負った痛すぎる失敗談だが、良く言えば限界突破精神、悪く言えば無鉄砲な一面を表すエピソードだと、ようやく本人も笑って回顧できるようになった。

 

そんなやんちゃ少年がサッカーと出会ったのは小学校1年生の時。「どうやら、近所の何歳か年上のお兄ちゃんがサッカークラブに入っていて、突然母親に『僕もサッカーやりたい』と言ったみたいで。でも、僕はそのことを全く憶えてないんです」。気がついたらサッカーを始めていた。

 

所属した地元の少年団ではすぐに頭角を表した。だが、担任の先生の弟がクラブチームのコーチをやっていた縁で、そのチームの練習に参加させてもらうと、あまりのレベル差に「こんな世界があるんだ」と衝撃を受けた。また、同じ横浜地区だったため、大会や練習試合で横浜マリノス(当時)のアカデミーと対戦することも多く、マリノスの選手を見るたびに「このままじゃダメだ」と、激しく成長意欲を掻き立てられた。そして、ついにその気持ちが抑えきれなくなった3年生の時、たまたまタイミングよくセレクションを実施していた『読売クラブ』のテストを受け、晴れて合格した。

「たまたま」とはいえ、心の奥底では「読売クラブに行きたい」との願望は強かった。「練習試合をした時に、やっぱり読売クラブが強かったんですよ。なんといっても個人個人の能力が高かったから、『ここに行きたい!』と思っていました」。実は、一度目に受けた時には「あっさりと落ちた」のだという。そこでコツをつかみ、二度目のセレクションで無事に合格。失敗を糧に、次の機会できっちりと借りを返す(結果に出す)部分もまた、富澤らしい。

 

プロになるまでは点取り屋として活躍

 

「もっと上手くなりたい」との一心で『読売日本SCユースS』の扉を開けたが、そこにはとんでもない世界が待っていた。一学年上には平本一樹さんが君臨。「本当にみんな個性が強くて。それぞれの街から、サッカーの“お山の大将”が集まっている感じ。気は強いし、負けん気も強いし、毎日喧嘩ばっかり。『あいつにはボール出さねー』とか『あいつと口聞かねー』とか、本当にそんなことばっかりだった。少しでも技術的に劣っていたら、めちゃくちゃなめられるし。今じゃ考えられない世界だと思う」

その中でも富澤は一切ブレなかった。「俺は俺」のスタンスを貫き、他者にベクトルを向けるのではなく、「誰よりも一番上手くなる」と己の成長のみに没頭することで、周囲の喧嘩や揉め事に巻き込まれることは回避できた。一方で、協調性の欠落には「迷惑をかけた」と反省しきりだ。ヴェルディのアカデミーといえば、昔から実力勝負。年齢はさほど関係ないという土壌ではあったが、基本的には各カテゴリーの最上級生年代がメインとなる。その体制に富澤は執拗に反発した。「メインが“3年生”になるのが面白くなくて。もちろん、じゃあ自分で(レギュラーを)つかみにいけという話なのですが、当時の自分は感じたことをストレートに表現していましたね」

 

ジュニアユース(中学)、ユース(高校)と、それぞれ自分が試合に出られる3年生の代になるまでは、何かと理由を作って練習を休んだ。それでも除籍にならなかったのは、当時の指導者たちが富澤のポテンシャルの高さを認めていたからに違いない。

 

中学でも高校でも、試合に出られる3年生になると、分かりやすく誰よりも熱心に練習に参加した。『守備の要』が代名詞とも言える今となっては意外に感じるが、当時はFW、つまり点取り屋として期待され、結果を出してきた。「今じゃ考えられないけど、当時の僕はドリブルで2、3人を抜いて、自分の形に持っていってシュートを打つ選手だった。あとは、難しいボールを処理して、納めてというのがスタイルで、とにかくフィジカル的な特長を生かしてやっていた」

プロになってからDFにコンバートされることになり、「やるからにはそのポジションのスペシャリストになりたいから、その都度、体もスタイルも作り直した」という。その意味で、現在の自分に直結する技術的要素はアカデミー時代にはないと断言する。そこまで徹底してシフトチェンジできる柔軟性もまた、富澤の大きな魅力であり、最大の特長と言えるのかもしれない。

 

若い世代に期待すること、伝えたいこと

 

デジタル化が進み、トレーニング方法なども常に最新情報が更新され、効率化されている昨今、明らかに「時代が変わった」と言わざるを得ない。そうした環境の中で育った若い選手が増えていく中で、理不尽上等、練習中に水を飲んではダメ、うさぎ跳び(今ではケガの元凶と言われている)が常識だった世代で育った富澤が、「そういう時代になった」と諦観しても不思議ではない。

 

だが、彼は決してそうではない。「今は今で良いところがいっぱいあって、サッカー含め、昔の人たちよりも、今の人たちのほうがよっぽど進化していると思う。結局は、良いものは良いし、悪いものは悪い、そこは変わらない」。新しいものを認めながら、自分の価値観を貫き続けることができているのである。

2005年生まれ、今春高校1年生になったばかり、プロ契約したばかりの橋本陸斗とも真っ先に連絡先を交換し、切磋琢磨を望んでいる。「可能性がある子がプロになっているわけだから、今の自分に自信を持って、良いサッカー人生を送ってほしい。そう思うと、お節介かもしれないけど、放って置けなくて」。相手へのリスペクトに、23歳の年齢差は関係ない。

 

これまでのサッカー人生、すべてが順風満帆だったわけではない。一般的な視点で見ると、「世の中、これを挫折って言うんだろうな」と思う時期は幾度としてあった。それでも、「必ずしも悪いが悪い、良いが良いとは限らない」と、物事は考え方次第、今後次第で真逆に転換できる可能性を信じて生きてきた。そして、20年以上のプロキャリアを経て、改めて思う。「サッカーにしても、人間関係にしても、しんどい時に学んだことこそが、“引き出し”になっている」。そこで得た教訓が、必ず先につながっていくと信じている。

 

だからこそ、今後を担っていく後輩たちにはぜひとも伝えたい。「自分の直感や、純粋に沸いてくる想いに対して時間を費やすことが、とてもたくさんのことを教えてくれます。自分の気持ちに正直に、考え込まず、そこへ向かって没頭してください。でも、いろいろな人の話もぜひ聞いてください。その中で当てはまるもの、人から大いに影響を受けて、人間として幅を広げていってほしい。世の中で『誰々がすごい』とか、そういうのに影響を受けないでほしい。自分の中でホットなものに出会っていってくれればいいなと思います」

選手一人ひとりの技術力がどんどん増している現代だからこそ、プロの世界で長く生き残るためには、一本筋の通った強い精神力やオリジナリティが必要だ。『読売クラブ』の名がつく組織でプロになった最後の現役選手の使命として、富澤は自らの存在でそれを証明している。