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2021.11.25

『YOUTHFUL DAYS』vol.15 若狭大志

『YOUTHFUL DAYS』vol.15 若狭大志

 

プロの厳しい世界で戦う男たちにも若く夢を抱いた若葉の頃があった。緑の戦士たちのルーツを振り返る。

取材・文=上岡真里江

 

外遊びの延長で始めたサッカー

 

缶蹴り、ドロケイ、リレー、お父さんとバッティングセンター…。学校がある平日の放課後は、毎日とにかく外遊びに明け暮れた。そんな小学生時代の若狭大志少年にとって、サッカーはその延長のようなものだった。2年生の時、通っていた小学校で活動を行うサッカー少年団に入ったのも、毎日一緒に遊んでいたふたつ上の近所のお兄さんの後を追っただけだった。

 

練習は土曜日と日曜日のみ。試合の勝ち負けには全く重きを置いておらず、何より『みんなで楽しむこと』『仲良くすること』が活動方針のチームだった。そんな“仲良しこよし”の環境の中で、若狭の負けず嫌いの性格は際立っていた。練習でミニゲームをした時のエピソードだ。「チーム分けをした時点で、僕のチームはサッカーができない子たちが集まっていて、明らかに弱かったんですよ」。それを理由に「こんなチームじゃ勝てるわけがない」と不貞腐れた態度をとり、コーチの逆鱗に触れて大目玉をくらったことは、忘れられない苦い思い出だ。

中学校に進学しても、サッカーのプライオリティーはさほど変わらなかった。実は小学6年生の頃、明らかに周りの子よりも上手かったため、卒業を機に「クラブチームに行きたい」と両親に相談したことがあったが、母から「そんなに真剣にサッカーはやらないでしょう?」と却下された。自身もそこまで強い意志があったわけではなかったため、「そっか。じゃあ中学校の部活でいいや」と、あっさり引き下がった。

 

部員数は少なく、顧問の先生は元ラガーマン。専門的な技術練習は一切なく、練習は毎回ミニゲームという典型的な『部活動』だったが、特に何の不満もなかった。今あらためて振り返っても、「小学校、中学校時代のサッカー歴で何かを得たかと言われたら、何もない」と断言できる。

 

そんなサッカー人生に変化をもたらしてくれたのは、小学校時代に通っていた少年団のコーチだった。浦和学院高校の指導者が高校時代の同級生という縁で、『スポーツ推薦』の話を通してくれたのである。浦和学院は、決して全国レベルの強豪校ではなかったが、若狭自身はこれまで本格的にサッカーに向き合ったことは皆無の身である。同枠で入学してくる生徒の多くは、少なからずクラブチームなどで才能を見出された特待生であり、正直、その実力差に不安や迷いがあったという。だが、「私立校で入学費を免除、授業料が半額というのは親孝行にもなるし、何よりも受験勉強をしなくていいのが大きかった」。魅力的な条件がそろい、すぐに「行きます」と答えた。

 

高校では技術や戦術以上に、規律や厳しい上下関係、人間性が重んじられた。とはいえ、若狭にとっては初めて真剣に“サッカー”を学んだ時期だ。「しんどかった」が、上達は他の誰よりも著しかった。自身の中では「自分を上手いとか、何かが急に成長したと実感したことは一度もない」というが、次第に頭角を現していくと、2年生からは試合にも出られるようになっていた。

 

そして、高校3年生で運命的な出来事が訪れる。当時は将来、安定した生活を送りたいとの思いから、卒業後は医学療法士や体育教師の資格がとれる大学への進学を目指し、「サッカーは高校で一区切りをつけよう」と決めていた。しかし、1年生の頃から苦楽を共にしてきたGKの友人を見る目的で試合観戦に訪れていたという東洋大学の監督の目を、若狭は釘付けにした。

「若狭という子と一緒ならGKもとるよ」。のちに恩師となる東洋大監督からのオファーに、正直最初は悩んだという。だが、サッカーで上を目指している友人からの「一緒に行ってほしい」という懇願を断るわけにはいかなかった。また、指定校推薦枠での進学を望んでいた若狭が、個人としてスポーツ推薦で行ってくれれば、高校側としても指定校推薦の枠が空き、別の生徒が進学できることになる。「ぜひ、スポーツ推薦で行ってくれ」との学校側からの願いを受け入れ、東洋大学でサッカーを続ける人生を選んだ。

 

プロ入りの礎となった身体能力

 

若狭は今の自分のプレースタイルの礎になっているのも、プロの世界に入れたのも、「100パーセント、大学のおかげ」と断言する。そこへ導いてくれた大学時代の恩師に、少し前、あらためて確かめたことがあった。「なんで俺を推薦で取ってくれたんですか?」

 

返ってきた答えは次のようなものだった。「当時から、周りとは比べものにならないほど身体能力が高かったのと、キックのフォームがとても綺麗だから。あとは、クラブユースから来た子たちはみんな、さすがの技術が備わっているけど、おまえは強くない高校育ちだったこともあって、アドバイスや練習で教えたことを素直に受け入れてくれるだろうと感じたから。それも大きかった」

その言葉を聞いて、自身でも振り返ってみた。「高校までは技術ではなくて身体能力だけでサッカーをやっていました。特にジャンプ力と走力には自信があって、ヘディングはめちゃくちゃ得意でした」。また、大学に入ってからは、東洋大のスタイルである「ボールを大事に動かして、パスをつなぎ倒す中で縦パスを狙う」サッカーの中で、2年生でセンターバックの定位置を奪った。「下手くそだから先輩から怒られまくりでしたが、『何くそ!』と思いながら練習と試合をこなして、次第に自信をつけていきました」。乾いたスポンジが水を吸収するが如く、教わったことや初めての経験など、失敗も成功もすべてのことをグングン吸収し、自らの肥やしにしてきた。

 

そして、そのルーツをさらに探っていくと、辿り着くのは幼少期の自分だ。

 

「小さい頃、本当に外でしか遊んでなくて、走ってばっかりだったというのが生きて、“身体能力”という形になったんじゃないかなと思います。もちろん、これが正解かは分かりませんが、今の自分を考えた時に僕が思うのは、サッカーをするのでも、勝負にこだわるのももちろん大事だけど、楽しみながらやることで、身体能力もついてくるのかなと思います」

後悔がないわけではない。「小さい頃からきちんと技術練習をしておけばよかった」ということだけは、プロになり、レベルが上がれば上がるほど強く思う。実は若狭と同じように、もうひとり大きな後悔を胸に抱いているのが、他でもないクラブチーム行きを反対した母親だ。

 

「いまだに母ちゃんは、『クラブチームに入れておけばよかった』と言いますよ。というのも、ことあるごとに「あの時クラブチームに入れてくれていたら、もっと上のレベルにいけていたかもしれねーなー」と、冗談まじりにスネてみせるからだ。プロ10年目を迎えた今、そんな風に母親と軽口をたたきながら、家族みんなで笑い合えることが、このうえなく幸せだ。同時に、ここまで大きなケガも病気もせず、“身体能力”を武器にできるほどの丈夫な体に生んでくれた両親へ、感謝の思いしかない。

 

30歳を前に、毎年2回ぐらいずつ肉離れを繰り返していたが、昨年1月に入籍してからは一度もケガをしていない。

 

「食事で支えてくれている奥さんにも、ものすごく感謝しています。この先もずっと支えてもらって、僕もしっかりとピッチで結果を残して、稼いで、奥さん孝行します」

ケガをしない体を手に入れ、まだまだ進化をみせる32歳。家族への愛情と同時に、“ヴェルディ・ファミリー”孝行も強く胸に誓う。